聞き書きという方法で人からお話を伺うのが好きです。
聞き書きとは、読んで字のごとく聞いたことを書きとめることなのですが、
一般的なインタビューと少し違うのは、録音した音声を一言一句書き起こし、
語り手の一人語りになるように編集するところです。
郷土史をつくるときにつかわれる手法でもあります。
どんな話を聞くかと言うと、語り手がどのように生きてきたのか、など個人的なエピソードを伺うことが多いかなと思います。
高校生が日本各地の『名人』に聞き書きをする「聞き書き甲子園」というものもあり、教育現場での関心も高まっているように感じます。
私は参加したことがありませんが素敵な取り組みですので、興味のある方はぜひ。
聞き書きに感じる面白さ
大学時代、文化人類学を専攻していた私は、離島や農山村にフィールドワークに行くこともあり、そこで地元の方から聞く個人の何気ない物語に魅力を感じていました。
それは、
「小さい頃は、あの山を越えて学校に行っていてねえ」
「あの岩まで泳いで行けるようになると一人前と言われたもんだよ」
など、本当に些細なお話です。
はじめて訪れた地で聞き書きをし、同じ時代を生きる人たちから私の知らない時代の話を聞くことに大いに刺激を受けていました。
その場の空気や聞き手と語り手の興味によって、話の広がりや進む方向が変わること、
書き起こしながらもう一度話を反芻することで得られる気づきがあること、
文章を組み立てながら、どうすれば語り手らしさを残した文章にできるかを考えること、
それらに面白味を感じて聞き書きを楽しんでいました。
祖父母のことを「知ろうとする」
そんな私は今、祖父母への聞き書きをしています。
それまでは、初めての土地や馴染みの薄い土地で関係性をつくりながら聞き書きをしていたのですが、少しずつ自分の祖父母の存在が気になり始めたのです。
(乱暴な言い方をすると)『他人』の生い立ちや思い出に残っていることは知っているのに、自分の祖父母の生い立ちや私が生まれる前の思い出は知らないという事に、ふと気づき、
あまりに身近にいる祖父母たちを「知ろうとする」ことを後回しにしているような気がして、焦りを覚えました。
それと同時に、私が今まで聞き書きさせていただいた方々の様に、祖父母もたくさんの些細な物語を持っているのだと思うと、とてもわくわくしました。
そんなこんなで、素直に、自然に、祖父母への聞き書きを始め、今に至ります。
幸い、祖父母も改めてじっくり話を聞きたいという私のお願いをすんなりと聞き入れてくれ、聞き書きを続けらえています。
感情の糸がほぐれていく
祖父母への聞き書きは、どこで生まれたのか、どんな暮らしをしていたのか、嬉しかったこと、悲しかったこと、今の関心事...どの話を聞いても新鮮で、生まれてからずーっと身近にいた祖父母の存在を、改めて感じ直すような時間です。
接する時間が長かった分、正直、私は祖父母に対してプラスの感情ばかりではありませんでした。
いつまで経っても納得できないことも、思い出すとやるせない気持ちになる思い出もあります。
でも、聞き書きを通して語られる物語の中には、
今まで共にしてきた時間の中で、受け取った言葉や見て来た振る舞いと、
祖父母の過去の出来事やそれを経て感じた何かが繋がるものがあります。
「だから、あの時怒っていたんだ..」
「だから、あの時喜んでくれていたんだ...」
と、祖父母の過去や今の言動の意味を捉えるきっかけにもなっているのです。
祖父母に対するあらゆる感情や思い出を
きれいさっぱり浄化し美しいものに書き換える必要はないと思っています。
でも、今までどうしても消化できなかったものが、
聞き書きで語られる物語によって少し消化できたり、
こじれた感情の糸がほぐれていくのは、なんだか嬉しいことです。
そういえば、この、ぐちゃぐちゃになった糸がほぐれていく感覚は
以前、聞き書きをさせていただいた方のご家族からも聞いたことがあります。
聞き書きでまとめた文章をお渡しした時に、
「父がこんな経験をしていたことを知れて何だか気持ちがすっと軽くなった」
そう仰ってくださった方がいらっしゃったのです。
私がそうであったように、
「知る」ことで、ほぐれていくものがあるのだなと思います。
「知る」ことで、その後の見方や接し方に想像力が加わり、やわらかくなることもあります。
ごく身近な人に聞き書きをする
一般的な聞き書きは、血縁やそれまでの繋がりがない第三者の聞き手が、語り手に話を聞きに行くことが多いです。
関係性のない人が聞き手になると、話し手が気兼ねなく話せ、聞き手はより新鮮な話を聞けるという面白さがあり、良い組み合わせだなと思います。
でも、私は、関係性があるからこそ聞くことのできる話もあると思うのです。
特に、私が祖父母へ聞き書きをしているように、聞き手が「この人に聞きたい!」という意思がある場合、そこに在る関係性が活きるのではないかと思っています。
たまに「私の祖父にも聞き書きをしてほしい」とお話を頂くことがあります。
お話を聞くと興味深い方ばかりですが、私はあまり乗り気になれません。
なぜなら、私よりもその時目の前にいる「私の祖父にも聞き書きをしてほしい」と話してくださっている人のほうが、明らかにその人(この場合、ご自身の祖父)への興味が強いからです。
様々な事情もあるので一概には言えませんが、
「聞きたい」「知りたい」という興味のある人が聞くことで双方にとって豊かな時間を過ごせることがあります。
依頼を受けて私が聞き書きをするのは簡単ですが、
それは誰かの豊かな時間を奪っているような気もするのです。
家族や友人、お世話になっている人など、
「ごく身近な人」の話を聞きたいと思って始めた聞き書きには不思議な使命感が伴うことも多いです。
「私が聞かなくては!」という使命感。
厚かましいかもしれませんが、そんなものを感じています。
誰かの為というわけではなく、自分の為に「私が聞かなくては!」と思うのです。
どこまでも自分勝手ですが、
「私の為に、話を聞きに行く」そんな感覚で聞き書きをしています。
ごく身近な人だからこそ、少しずつ何度も話を聞きに行くことができるという良い点もあります。
じっくり話を聞く時間も良いものです。
これからも祖父母についてまだまだ知ることのできる何かがあると思う限り、聞き書きは続いて行くと思います。
聞いて、書いて、残すこと、これは何の意味があるのかと問われると、今は「私の為」としか言えませんが、もう少し時間が経つと他の意味も生まれてくるような気がしています。
その時は、またここに書き記そうと思います。
(2018.9.20記)
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